日本の憲法

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日本発の近代憲法の出来るまで

さて、統治が江戸幕府から朝廷へと戻り、明治維新によって近代的な国家としてのスタートを切ったというのは既に「日本の憲法」にて説明したとおりですが、この時に生まれた明治憲法がいかにして生まれ、いかにして発展してきたのか、それについて紹介したいと思います。朝廷は江戸幕府から権力を返されてから、様々な手法によって日本を近代国家へと押し上げようと試みました。まず初めに行ったのが「五箇条の御誓文」の公儀喧伝です。五箇条の御誓文とは、要するに新たに作られた薩摩や長州などの倒幕に対して非常に力を奮った藩の人達によって構成された新明治政府が、天皇に対して忠誠を誓い、そのために働くということを示した「誓文」でした。この内容についてその全てを公開し、全国民にそのことを知ってもらうために、出来るだけそれを喧伝したのです。これに続いて、今まで個人に対して与えられていた版籍を天皇の元へと戻す「版籍奉還」と、従来の藩制度を廃止し、新たに県制度によって統治するとした「廃藩置県」が行われ、連邦国家的体制を払拭、より「一つの国」としての形を作って行きます。さらには、徴兵令が敷かれ日本で初めての、統一された護国軍事組織が生まれ、地租改正によって財政基盤が確立、中央集権国家体制が急速に整備されていきました。これに対して、何の障害もなかったわけではありません。政府による急速な中央集権化に反対して「自由民権運動」という、国民に主権を与えて自由な政治を行うべきだという運動が活発になりました。板垣退助などがこの代表です。その流れに押されまいと、明治政府は「国会開設の勅諭」を発令、1890年までには必ず国会を開設するという約束を取り付けて、それまでに憲法の制定もすると確約しました。とはいえ、日本にはこのときまだ近代的な憲法に対する知識がありません。そこで政府は後に日本国初代総理大臣となる伊藤博文をヨーロッパに派遣、憲法調査を行わせます。伊藤博文はヨーロッパの幾つかの国を周り、それぞれの国において施行されている憲法についての知識を得ます。その時得られたのは主に「プロイセン型」と「フランス型」の2つでした。プロイセンとは当時のドイツのことで、中央集権国家であり、長く王政が敷かれた憲法であるのに対して、フランスはかのフランス革命によって王政が倒れ、自由民権が非常に強い、国民主権国家としての憲法であることを理解し、そのどちらを日本の明治憲法の基盤とするべきかという議論を持ち帰ります。その結果、明治政府が選んだのは「中央集権型」であるプロイセン型の憲法で、明治憲法はプロイセン憲法をベースにして想起されていくことになりました。まずは華族令が制定され、日本にヨーロッパで言う所の「貴族」にあたる「華族」が生まれ、同時に太政官制度が廃止されて、内閣制度が発足しました。これにあたって、伊藤博文は初代総理大臣となり、後に枢密院(天皇の意思機関)が設置されるなど、施策は着実に実施されていきます。そうした基礎的な部分の設置が終わった後に、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎等によって憲法やその周辺の関連法案が作られ始めます。これら全ての作業が終わり、1888年、明治憲法草案は天皇に奏上され、枢密院での諮詢を終えてついに確定。1889年2月11日、「大日本帝国憲法」として発布されることになりました。その後、以前の確約に基づいて第一回帝国議会が開催され、正式に憲法が承認施行されるに至ったのです。当時の明治憲法は、天皇や臣民権利、あるいは臣民義務、国会にあたる帝国議会、国務大臣と枢密院顧問、司法、会計、補則からなる合計7章76条から成立しました。さて、それではその明治憲法、改め「大日本帝国憲法」が、いったいどのような原理によって作られていたのかについて、「国体観念」に由来する部分と「立憲主義」に由来する部分にそれぞれ分けて紹介するのに加えて、さらにその大日本帝国憲法がいったいどのような運用を行われていたのかについてもより詳しく見ていきたいと思います。

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